日本と中国の友好を願って活動する日本中国友好協会玄界灘(宗像・北粕屋)支部

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9月からこのブログの性格が少し変ります。

日中友好協会玄界灘支部通信『ニーハオ玄海』を中心に、福岡県連、全国版機関紙などの記事の紹介をします。
併せて、中国滞在者の目で感じる『中国現地からの便り』の色々も載せていきます。
前支部長の繰言

<年寄りと若者と>
若い時に年配の人に接することは意味がある。
日中友好協会ニーハオ玄海でも、留学生や日本の若者に、大人達との交わりを促している。「那珂川町9条の会」が、意見交換を求め留学生4人を招いた。30人の大人を前に、若者が自己を語るのだから貴重な経験だ。先日も「原水禁国民平和大行進」の通し参加者に事務所に泊って貰った時、地域の若者との交流を企画し、併せて「ニーハオ玄海」も渡した。
後継者つくりもこれら交わりの延長上にあるはず。45年前、出会った年寄り達は私に直接の要求を何一つしてない。しかし私はその交わりの事実を財産にし今も生きている。だからお返しの意味でも頑張る。種まきはいつでも重要。成果はすぐ現れない。人の集まりの機会を窺い、出向いて最新の情報を渡す。無駄に見える何回ものこの苦労及びその意義の確認を楽しめる年寄りがまた一人増えれば、その分、老若の交わりが進むはず。(090731)

<暫し「再見」日本>
中国に行く8月20日が段々近づいてきた。上海片道切符は38000円のを確保して貰った。
日中友好協会ニーハオ玄海、津屋崎千軒・海とまちなみの会、二胡の会、福津の懇話会や9条の会、教育を考える会、留学生援助・交流などの市民活動への期待と、中国でそれらの運動を進める決意や月隈木履(日田市)の下駄を履き続ける楽しみをも膨らませている。
送別会、壮行会も感謝だ。逆にお世話になった人たち、特に「30人学級・私学助成増」の署名簿を送って来てくれた人たちの所に出向き、「暑中見舞い」「残暑見舞い」を配らせて貰った。「長崎の原水禁世界大会で会いたい」の呼びかけに応えた子ども連れの教え子ら20年振りの人にも会えた。お互いに「サヨナラ・再見」の言葉に諸々の希望を託すのだ。 (090810)

  列成しつ 黄色はまぼう 夏さ中
津屋崎の塩田跡の一部に、はまぼうの花が咲いた。一時は消滅すら恐れられていたのに、何百本ものはまぼうを育ててきた「はまぼうの会」らの人たちのご苦労に感謝しつつ楽しませてもらう。併せて何の運動でも同じだが、何年も地道に活動することの大事さを、誰もが学ぶ場にもなっている。


 宇津原さんの『漢方の話』
健康になるための切実な願いを持って参加し、うつの場合と老化防止の項を特に印象深く聞いた人もいた。
五行は、木火土金水だが、木=肝臓=青、火=心臓=赤、土=脾臓=黄、金=肺=白、水=胃臓=黒。と考えると言うのもなかなか合理的な気がした。四季を色として区別する発想につながっているのも面白い。豆と言っても季節の色で健康に関わりがある。春・ソラマメ、夏・小豆、秋・大豆(だったか)、冬・黒豆。体が必要とするから、その時期にそれらの野菜が育つと言われて一層納得できた。
 宇津原さんは、玄界灘支部会員でもある。「名前だけの会員ですよ」と謙遜されるが、知る人ぞ知る憧れの存在である。

津屋崎千軒 海とまちなみの会の表彰
 同じボランティア組織だが、国土交通省による「景観つくり」を評価した表彰が行われ、福津市長に対するその報告会ががあった。
 西日本新聞にも載り、福津市広報でも紹介された。

まちおこしセンター開設
 7月12日、まちおこしセンターが開設された。福間のボランティアセンターとは多少趣も異なるが、市内の我々ニーハオ玄海も含むボランティア団体の集まりの場にもなる。積極的に活用しながら、日中友好協会はじめお互いの存在を広く知らせ合う好機としたい。


     北海道栗山町 栗山炭鉱中国人殉難者之墓
 福岡県連の松山さんに教えられ、富樫利一氏の来福公演を聞きに行ったのは、一ヶ月以上前である。
北海道の真ん中、夕張炭鉱に隣接する栗山炭鉱を一度見てみたいと思った。
 昨6月25日、大学の友人椎名さんの案内で、新千歳空港から直行での見学となった。
 夕張に向う道路から、小さな道に左折する。角に「栗山炭鉱」の矢印が出ていた。字も汚れかすんでいて、いつの頃の案内表示か定かでない。
かつて引き込み線路が走って、選炭場から石炭を送り出していたことが推測できた。後で当時の写真も見ることが出来た。小さな線路跡である。
集落の共同墓地の一画に、それまでの碑に替えて建てられた碑「中国人殉難者之墓」を確かめることが出来た。まだ新しい。
 栗山町史にも記されているのは当然だが嬉しい。表面的であることは否めないが。
椎名さんは定年間際栗山町に住み着くことになり、町の歴史などにも興味があると言う。北海道新聞に載った記事も大事に取っていて、切抜きを私にくれた。死亡者数は、町史記載の76でなく、生き残って記録をし続けた鳳さんの記録に基づき98人と示されている。
 決して長くはない記事だが、当時の日本政府や大企業の思惑も含め、理解し易かった。風化させないことの大事さ。年寄りとしての役割を語らった。(090626)