日本と中国の友好を願って活動する日本中国友好協会玄界灘(宗像・北粕屋)支部

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友好の海・東シナ海にするために<第4回>

~みんなで考えよう尖閣諸島問題~

<日本の主張に対する「中国の反論」>

①先占について。「先占すれば、領土」という理念は、「植民地時代、帝国主義時代」の遺物である。その論理を振り回すのはおかしい。そもそも「無主の地」というが、古くからの中国の領土であって、決して「無主の地」ではない。
②1895年1月の日本の「尖閣諸島領有宣言」なるものも、国際的に広報せず、秘かに決定したものである。日本が「何回も検討、確認した」のは、その「日本領化」する危うさを認識していたからである。
③「日本が実効支配」というが、日清戦争後、台湾は日本の植民地にされた。
  台湾の一部の尖閣諸島は一緒に植民地にされたので、戦前の日本が台湾附属の尖閣諸島を「実効支配」することになったのは当然の成り行きであり、これが領有の論拠にならない。戦後はアメリカが勝手に沖縄支配、本来、台湾の中国復帰時、当然中国に返還すべきそなのに、返さず勝手に尖閣諸島を支配し、その後、勝手に日本に渡した。
④日本による釣魚島の発見は琉球国を沖縄県として併合した後の1884年であり、中国の文献に初めて同島が登場してから遅れること500年である
⑤日本の釣魚島の領有宣言は、日清戦争で事実上、勝利を確信する状況になって、清国が抗議できる状況にない時に行ったものである。当時中国では、「日本が佳花嶼、棉花嶼を占領するのでは」の情報も流れていた。

<中国側の反論を簡単に紹介すれば以上のようなものである。最大のポイントは“歴史的に領有してきた領土(尖閣諸島)を、1895年に日清戦争の勝利確信の中で一方的に、秘密裏に領有宣言したのは無効”と言うことになろうか >

友好の海・東シナ海にするために<第3回>
  
 ~みんなで考えよう尖閣諸島問題~ 

     <中国の主張>

中国の尖閣諸島問題での主張はだいたい、以下のようなものである。
①文献から見ても、実効支配の上でも、歴史的に中国の固有領土である。日本には歴史的な根拠にたる文献はない。
  ●中国と琉球王国(1429年統一王国)は冊封関係があり、冊封使の記録にある陳侃「使琉球録」(1534年)、郭如霖「重緑使琉球録」(1561年)
  ●明時代の中国の海上防衛区域になっていた
  胡宗憲の倭寇討伐区域に釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼も入っている
  ●日本の学者・林子平の「三国通覧図説」にも琉球と色分けしている
②日本は日清戦争での圧倒的優勢に乗じて、講和条約締結(1895年4月)の間際(1895年1月)にこっそっり盗取、日本版図に取り込んだ(「日本の領有宣言」)
③日中戦争終丁後、日本が米国に勝手に引き渡し、米国が「施政権」を行使
④島々には中国風の島名がついているのは中国領である証拠である
⑤地理的にも中国大陸から張り出した大陸棚上にあり、台湾の附属島嶼である以上、「支部ニュース」76号と今号77号に日本と中国の主張を併記してみた。

次に、両国は相手国の主張にたいしどのような反論をしているのだろうか

<中国の主張に対する「日本の反論」>

①中国の言う歴史的文献については琉球との境界を言っているが、尖閣諸島が“中国の領土”という根拠にならない
②1895年1月の領有宣言は、「無主の地」を、十分確認後、領有宣言した。「先占」にあたり盗取ではない。下関講和条約締結時は全く問題にもならず。以後、日本は実効支配す。
③戦後、アメリカが沖縄を占領し、尖閣諸島の黄尾嶼、赤尾嶼を射爆場に(実効的に)利用していたが、中国から(台湾当局からも)は何の抗議もなかった。中国領と認識するなら当然抗議するはずである。「尖閣諸島近海に海底油田がある」と報じられ、1970年代になって、急に領有を主張し始めた。また、1960年代までの中国の地図は尖閣諸島を中国領にしていない。
④島名については沖縄の人々も地元の名前(沖縄名)をつけて、親しくよび慣わしている
⑤大陸棚上にあるのは事実だが、それが陸地(島)の領有根拠にならないし、台湾の附属地というのも台湾から離れていて無理かある
     (いわさひでき)

101129特別『玄界灘支部版』集中紹介

友好の海・東シナ海にするために〈第2回〉
~みんなで考えよう尖閣諸島問題~

さて、尖閣諸島とはどこにあるのでしょうか。沖縄県石垣島と台湾からほぼ中間
に位置する中国から張り出した大陸棚上にある5つの島からなりたっています。面積
は魚釣島(3.8K㎡) が最大で、全部で5.3K㎡です。もともと無人島ですが
1896年から1940年まで日本人が住み着きました。その後は再び今日まで
無人島です。日本と中国はこの島をめぐって領有を争っていますが、現状は日本の
実効支配下にあります。
両国の主な主張は以下のようなものです。

〈日本の主張〉

①先占。どこの領土にもなっていないこ
の無主の地( 尖閣諸島) を1895年1月に領有宣言した( 国際的には先占という)。
同年4月に日清戦争の講和条約( 下関条約) で中国から台湾を割譲させ、植民地化し
たが、それとは無関係である。

実効支配~領有後、現実に日本の権力を行使した)戦前は同島に日本人古賀辰四
郎などが定住し経済活動も行った)戦後は沖縄は(27年間米国の直接支配地となっ
たが)1951年、米軍に射爆場として赤尾嶼=大正島と黄尾嶼=久場島を貸与した
り、1950年から今日まで、数次の学術調査もしている。1969年には台湾
住民の難破船解体作業に入域許可書を発行した。中国も日本領を承知していた)1
919年、福建省漁民救済時、中国長崎領事は「沖縄県尖閣諸島」と記した感謝状を
贈っている。)戦後、冷戦下、対立する「アメリカ帝国主義」が射爆場に使用して
いるのに、中国は何ら抗議をしなかった。)1960年代までの中国(台湾も) の
地図は尖閣諸島を中国領に区分していない。)「人民日報」(1953・1・8号)
は尖閣諸島を琉球列島一つと記している1969年5月ECAFE(国連極東経済委員会)
が東シナ海に「石油がある」と発表してから、中国政府( 台湾当局も) は、これまで
の態度を変えて、領有を主張し始めた。    

                            (いわさひでき)


101127特別『玄界灘支部版』集中紹介

友好の海・東シナ海にするために
(第1回〉
~みんなで考えよう尖閣諸島問題~

中国漁船の拿捕と釈放、その後の両国での抗議運動、閣僚の発言などをめぐって、日中両国の関係がギクシャクしています。東シナ海においては、尖閣列島領有問題のほか、領海、ガス田問題や漁業問題での排他的専管水域(EEZ)問題など懸案の事項がいくつか存在しています。日中両国間にこの種の対立が起きても紛争の火種にし
ないよう、指導者同士の賢明な対応が求められます。

「領土問題は存在しない」で、話し合い拒否では前進はない

尖閣諸島問題では、日本政府は「現実支配」している強みからか、「領土問題は存在しない。話し合う余地はない」と極めて強硬です。5月に鳩山前首相が「中国とよく論議したい」との主旨の発言をしたら、圧力があったのでしょうか、引っ込めてしまいました。しかし、話し合わなければ解決しない事は明らかです。話し合って
堂々と日本の主張をすればいいのです。
例えばガス田を先行開発している中国が「中国領海内の問題だ。話し合う余地はない」と突っ張ったらどうなるでしょうか。さらには、「竹島」や「北方領土」を現実に支配している韓国やロシアが「現実支配」という立場から、話しあい拒否をした場合(韓国は実際している)、日本はどう言うのでしょうか、ちょっと考えれば分
かることです。「話し合わない」は日本の領土問題解決全体から見ても得策とは思われません。

当面は小さなトラブルを避ける仕掛けを設ける必要

とにかく両国がテーブルに着いて、話し合うことが必要ですが、「即、解決」できる問題でもありません。当面は漁業でも、ガス田でも、トラブルを起こさないような何らかの枠組みを作る必要があります。トラブルが起きたら、その取り決めに従って「熱くならずに」「冷静に」対応することです。今回の事件も、聞くところに
よると「暗黙の了解」内での中国漁民の行動であったようですが、両者対応を誤ってしまったようです。仮に、そんな場合でも「反中」とか「反日」とかと騒いで、国民同士を対立させるような事態を何とか避ける必要があります。そんな時、両国指導者の賢明さが必要になります。「悪しき隣人」などと相手を罵倒したり、経済カ
ードを持ち出すのでは、火に油を注ぐようなことで話になりません。 (いわさひでき)


石津宏介のHP(ホームページ)は、「石津宏介」で検索するか、
http://www.geocities.jp/fkpwr261/index.htm で見られるはずです。
駄目な時はj「あるがままに前進」か「arugamama3」で検索するか、
http://blog.goo.ne.jp/fkpwr261_521/ (261の後は[ _ ]半角の下バー)
で、HPとほぼ同じ内容を見ることができます。

  101116中国情報

三題ばなし(再び中国から)その30  101116 来自中国的三个话题

<恩人との出会い>

大学時代からの三人の恩人の一人、重盛さんと遂に上海で会うことが出来た。上海で仕事する目的の一つが達成された訳だ。重盛さんの会社は上海にもある。中国の家庭用ガス漏れ等探知機の販売を目標にしている会社だ。私は記念の意味も込めて購入し取り付けた。
上海での「名刺」は作成が遅れ渡せなかった。が、上海での仕事ぶりの一端を伝えることは出来た。昔から自分の頑張りを見てもらい、その都度評価も戴く。それで励まされ、また会うことの出来る日まで一層頑張れる。そんな頑張りの形でしか私は恩返し出来ない。
人生での恩人は少なくない。だが今も甘えられる人は多くない。ハルビンや蘇州にまで会いに来てくれた向山さんもこの重盛さんも掛け替えない人だ。今四年生は学生生活を総括し残り一年と十年後をも展望する。彼らがいい人と巡り会うことを私はそこでも願う。

<与恩人相遇>(翻译 徐旎 )

重盛先生是大学时代时我的三位恩人之一。在上海这次终于与他相见了。这样我来上海工作的目的之一也算达到了。重盛先生在上海也有公司。他的公司做的是贩卖中国家用煤气泄漏探测器之类的生意。带着纪念的心情,我也安装了一个。
在上海定做名片晚了点,没能给他。但是和他聊了聊在上海的一些工作情况。一直以来我都会和重盛先生谈谈我的努力情况,并听取他的评价。然后得到重盛先生的鼓励,这样在下次见面前就能更加努力。我只能以这种努力的方式报答他。

人生中的恩人不少。但能依赖到现在的人不多。特地到哈尔滨、苏州来见我的向山先生,和这次的重盛先生对我来说都是无可替代的人。现在的四年级学生在总结着他们过去的学生生活,并展望着一年甚至十年后的生活。我也希望他
0204;能在将来有美好的相遇。




<季節の味 新米>

私は三度三度食事を作る。ありきたり食材だが昆布、鶏、鰹などで味を変化させる。時々櫻田さん等から貰うおかずで味の変化も愉しむ。日本から重盛さんが新米を運んで来てくれた。私はその美味しさに感激。手近な中国人日本人に僅かずつだがおすそ分けした。私の喜びのお相伴を願ってだ。
私は中国で日本米を購入しない。新米など望むべくもなかった。兎に角匂いがいい。「日本」を体全体で噛み締める。おかずなしでも食べることが出来る。

生き物は食べ頃があると言う。でも私の食生活に季節感は余りない。特別の食材を求めた調理や食事を愉しんでいないのだ。お粗末に感じる人もいようが、私には時たまのお土産がご馳走になる。餅は別として、新米以上の贈物などなさそう。でもそれは私の好み。新米を喜ぶ人もいれば、さして喜ばない人もいる。そんな諸々の
「常識」を今回も学んだ。

<季节美味 新米>(翻译 刘秀凤)

我每天做三顿饭,虽是常见的食物材料,用海带、鸡和鲣鱼等调味。有时樱田他们给我拿来菜能品尝到不同的味道。重盛从日本给我搬来了新米,那美味让我很感动,虽少量给身边的中国人日本
人分送,寄托着我的喜悦相随。
我在中国不买日本米,更没期望新米。特别是香味,可以咀嚼品味到整个”日本”,不用菜都可以吃下饭。
都说生物有好吃的季节,但我对美食基本上没有季节感,我不追求特别的食物也不热衷于做菜,是个粗糙简单的人,对我而言,有时偶尔的土特产也能成为佳肴。糯米糕暂且别论,比新米更好的礼物我#
273;得不存在了,但这是我的喜好。有享受新米的人,也有不喜欢的,这次也学到了诸如此类的“常识”。


<スピーチコンテスト>

スピーチコンテストばやりでないかと思うくらい、この一ヶ月に3回も経験した。はじめ新鮮だった上海のスピーチコンテストだったが、数を重ねると要求したくなることも出て来た。歴代上位入賞者を真似た仕草のわざとらしい醜さも見た。ある会場で述べられた審査基準に納得した。選手となった学生等の語る内容の理解の浅さ
や問題を3点にまとめ指摘した。「1,質問を聞き取る力 2,判断力 3、表現力」は、人格を問うたことでもあろう。

私は中国で仕事する中、学生と計らい二つの大学でスピーチコンテストを実施した。彼等と比べるのは適当でなかろうが、弁士の本気の思想、感情を脇に置いた感の手練手管には馴染めない。肝腎なのは、訴える中身と論理と必死さだ。アクセントがいいに越したことはない。それも中身あってこそ光る。「日本旅行」の賞品も貰
うべき人に届いて欲しい。


演讲比赛 (翻译 许旻)

我在想最近演讲比赛是不是很盛行,竟在一个月的时间里自己连续经历了三次。一开始的上海大学生日语演讲比赛很新鲜,但如今演讲大赛的评分要求越来越高。其中也看到了模仿历届夺得头
;筹的选手那令人生厌的矫揉造作。领会了在某个会场里叙述的评判标准。作为参赛选手的学生对其所表达内容的理解的不足和问题总结为一下三点:1:听懂问题的能力2判断能力3表达能
力 而这三点也是对人性的一种提问吧。


在我从中国工作的这段时间里,和学生一起商量在两所大学里举办过演讲比赛。虽说同他们作比不是很恰当,但是真的很难习惯演讲者在演讲中没有放入自己本真的思想、感情而去依靠编造的技巧。真正重要的是,
牢牢抓住传达的内容和理论。当然音调也好是最好不过的了,但那也是基于演讲内容之上才可以闪光的。希望能把作为奖品的“日本旅行”颁发给真正值得接受的人。



石津宏介のHP(ホームページ)は、「石津宏介」で検索するか、
http://www.geocities.jp/fkpwr261/index.htm で見られるはずです。
駄目な時はj「あるがままに前進」か「arugamama3」で検索するか、
http://blog.goo.ne.jp/fkpwr261_521/ (261の後は[ _ ]半角の下バー)
で、HPとほぼ同じ内容を見ることができます。


2010年10月25日号1面

日中関係前進の道筋を熱心に討論
協会創立60周年記念講演とシンポ

 日本中国友好協会は10月9日午後、東京都内で「創立60周年記念講演&シンポジ
ウム」を開催。悪天候のなか、250人余りの参加者が会場を埋め、3時間半もの全プ
ログラムを終始熱心に聴講し、大きな拍手でこの催しの成功を盛り立てました。

協会発足の原点を大切に

伊藤名誉会長が「日中関係と日中友好運動の60年と未来」と題して記念講演
 田中義教協会理事長が主催者を代表して開会あいさつと趣旨説明を行なった後、
今回の行事参加のため来日した中日友好協会の袁敏道秘書長と張振興政治交流
部員、中国大使館の文徳盛参事官を紹介、満場の歓迎を受けました。
 伊藤敬一名誉会長が「日中関係と日中友好運動の60年と未来」と題して記念講演。
戦後史のなかでの日中友好運動を振り返り、1950年10月1日に誕生した日中友好協会
が結成宣言の綱領第一項で「日本国民の誤った中国観を深く反省し、これが是正に努
力する」と指摘していた原点に立ち返って、今後、日中両国民間で多面的な交流を
発展させ、人民の力でアジアの平和の潮流をつくる展望を切り開こう、と訴えました。

学界の第一人者6人がパネリストに

シンポジウムは「日中関係の未来を展望する」がメーンテーマ。姫田光義さん(
中央大学名誉教授)と加藤三由紀さん(和光大学教授)の総合司会の下、学界の第一
線を代表する著名な学者6人がパネリストとして登場しました。
 第1部「歴史の自省から新たな日中関係を模索する」(コーディネーター=広島大
学教授 水羽信男さん)、第2部「現状を分析し未来を展望する」(同=立命館大学
教授 宇野木洋さん)に分かれて各氏が15分ずつ問題提起し、相互討論を経て、最後
にまとめて質問に答えるという形式で進行。
 会場には、短時間ながら的確にポイントを突いた6氏それぞれの発言に耳を傾ける
真剣な空気がみなぎりました。

歴史の自省から新たな日中関係へ(第1部)



 第1部の発言者

 第1部では、まず石島紀之さん(フェリス女学院大学名誉教授)が「日中戦争の
研究から」と題して、07年の南京事件70周年国際シンポ、日中戦争の国際共同研究な
どでの体験を披露し、相手側を一面的に判断する日中双方の「ナショナル・ヒストリー
」を克服しつつ学問的探求を深め、それにもとづく相互理解を増進すること
の大切さを強調。市民レベルで対話を積み重ねながら、歴史認識を変え、政治を変え
ていく必要があると述べました。
 山田朗さん(明治大学教授)は「日本近代史研究から」がテーマ。近代日本が行なっ
た戦争の戦場のほとんどすべてが中国だった歴史を振り返りつつ、日中戦争の「記憶」
が語り継がれない構造を検証。それは戦争体験者が家族のなかでも「語るに語れない」
事情や外では話せない「口止め」の要因があったからだと解明。日中戦
争を生活上の身近な問題として若い世代に継承していく必要性を強調しました。
 劉傑さん(早稲田大学教授)のテーマは「日中歴史認識問題の研究から」。日中政
府間の取り決めで行なわれた歴史認識共同研究で、最大の争点は「認識の共通・共有
は可能か」だったが、「可能だ」(中国側)に対し、「違いの確認が大切」(日本側)
という立場のずれが明らかになった、と指摘。
 国内的要素と国家間の要素が整理されないまま、歴史認識が語られている現状があ
り、政府、民間いずれも、さまざまな形で歴史認識の共同研究を深めていくことが必
要だと述べました。

現状を分析し未来を展望(第2部)

第2部の発言者

 第2部では、最初に大西広さん(京都大学教授)が「中国経済の現状から」のテー
マで登場。中国経済の新しい問題点として、労働問題では賃金格差が「あるほうがよ
い」から「ないほうがよい」への転換点にあり、農民問題では、土地の「私有財産化」
が進行し、民族問題では、経済開発のなかでこそ対立が生じている、と指
摘。政府主導の市場経済化を進める中国式統治モデルは、資本主義の限界露呈の下で、
われわれにとっても参考になる、と述べました。
 羽場久美子さん(青山学院大学教授)は「EUの現状から東アジア共同体を展望す
る」と題して発言。東アジア共同体実現のためには、そのカギとなる「日中和解」が
急務だが、その点で、「究極の敵」だった独仏の和解を中心とするヨーロッパの統合
を教訓とすべきである、と強調。アジアにはすでに10を超える地域協力機構が
できており、経済を中心にできるところから統合体へと発展させるべきだと指摘しま
した。
 毛里和子さん(早稲田大学名誉教授)は「日中関係の現状から未来を展望する」の
主題で発言。中国外交の特質として、問題別や相手ごとにあらゆる主義・理論をプラ
グマティックに活用し、「外交はパワー」という立場をとり、主権至上主義にこだわ
り、外交手段としての軍事行動がありうること、などを列挙。今後の日中関係は、
あらゆる分野で「理性化、制度化、利益化」のルールを確立する必要がある、と
提起しました。
 発言終了後の相互討論や、会場からの質問への回答では、天安門事件(1989年)の
評価、劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞、中国の民主主義のあり方などをめぐってパ
ネリスト間で意見の相違もみられ、中国の現状と今後の展望を多角的に判断するうえ
で有意義なシンポとなりました。
 会場からも「たいへん良かった」という多くの感想が聞かれました。

現物は以下の場所にご連絡下さい。
『玄界灘支部ニュース=ニーハオ玄海』福岡県福津市宮司4-12-17(TEL 0940-
52-1246)
『福岡県連版』福岡市中央区渡辺通2-8-23(TEL 092-761-0604)
『全国版』東京都千代田区西神田2-4-1東方学会ビル3階(TEL 03-3234-4
700)


101101 中国報告

三題ばなし(再び中国から)その29  101101
来自中国的三个话题

<ストレスからの激痛と完治>

突然の首痛に襲われた。目玉も動かせず板書も困難。咳きも不可。体は斜めにも横にも出来ず、夜も椅子かベッドに座ったままじっとする外ない。泰州で「上海での労働ビザ発給に必要な書類は作れない」と言い張る外事部が、若い教員の就任をも突然困難と言い出した時、今と同じ症状に陥った。ストレスが原因だから好転の目処が立つと痛みも消える。

今回上司に「インタネット接続は外事処に自分で請求に行けばいい」と言われたその夜、首の辺に異常を感じ、翌日もう一人の責任者が、学校で已む無くインタネットする私の姿を見て「楽しそうね」と声かけした。冗談じゃないと思った。その夜から私の首に激痛が走ったのだ。それも以前のと同じく少し「朗報」が入ると痛みは部位を移動し和らぐ。インタネット接続は間もなく可能らしいと聞いて完治した。私の心は直に体に表れるようだ。


<压力下的剧痛和治愈>(翻译 刘秀凤)

突然脖子疼痛,板书很吃力眼珠也动不了,咳嗽不出,身体横着斜着都不行,晚上也只能一直在椅子或床上坐着。在泰州主张“不给提供在上海劳动签证所需的资料”的外事部说年轻教师上岗困难时,出现了和Ĩ
16;在一样的症状。由于压力的原因,时机好转时也就不疼了。


这次上司说“要网络的话自己直接去外事处申请就可以了”的当天晚上,感觉到脖子周边异常,第二天,在学校看到我无可奈何地申请网络时另外一个负责人竟然说“好像很开心哦”。开什么玩
笑!那天夜里我的脖子开始剧痛。和以前一样稍微有“喜讯”传来时疼痛部分移位缓和,听到可以连接网络时完全好了。我的心直接在身体上表现出来啊!



<最後の上海万博見学>

終了10日前に教え子と出かけた。韓国館入場で3時間以上待つ間、押されもみくちゃされることを体験した。長い列、いらいらもあるから、時に私の下駄を見つけ暇つぶしをする場面もあった。韓国の太鼓の音などを聞き、世界共通の若者文化であるダンスをモニターで見ながら進み、よく分からない内に押し出されるように出て来てしまった。
日本館は今回も長い列が出来ていたが、同じ館の一画で「京都週間」があっていて、これにはほとんど時間をかけずに入れた。中国語の出来る芸妓さんが舞妓さんも含めた一団の紹介もするし、芸も見せた。会場との質疑応答もあって、観客は京都の風物を学んだ。
5月の頃は苦も無く入場できたベトナム館、北朝鮮館も人で溢れていた。音楽好きの教え子とインドネシア館の演奏を座って楽しんだ後、肌寒くなった夜を地下鉄駅に急いだ。


<最后的上海世博之行>(翻译 王砺)

我是在闭幕前十天,和学生一块去的。在韩国馆外排队的3个小时间,体验了被推推搡搡的感觉。游客们都很急躁的样子,但也不时议论我的木屐来消磨时间呢。我们一边听着韩国太鼓表演
的音乐,一边在大屏幕上看着世界共通的青年文化的街舞,一边向前挪动着,糊里糊涂的就被随后的人流推挤着走出了韩国馆。


日本馆这次也是大排长龙。同一场馆的一侧,有一个‘京都活动周’,我们几乎没花什么时间排队就进去了。会说中文的艺伎带着舞伎们向大家介绍了艺舞伎文化,并进行了艺舞伎表演。&
#36824;有和观众互动问答的环节,让观众学习了京都的风情文化。

在五月的时候几乎毫不费劲就进去了的越南馆和朝鲜馆,现在也是人头攒动。最后,和喜欢音乐的学生一起坐在印尼馆欣赏完音乐表演后,因为夜深降温了,我们匆匆走向了地铁站。



<学校の一日宿泊所>

夜の行事で遅くなり、帰りのバスだと着くのは10時過ぎ。だから、学校所有の宿泊所に泊った。学生たちが泊るには高価らしい。先輩の櫻田さんも隣室に寝た。二階には別の学部の職員も泊りに来ていた。往復二時間半余かけても自分の部屋の夜がいいか、偶に他所のベッドで寝るのもいいかと言う判断だった。「何も無い」と言われ寝袋持参だったが、備付けの夜具は清潔。電源を増やせたらお湯沸しもパソコンする分にも不都合はない。

学生寮の近くだから夜も相談に乗ることが出来た。昼間では納まり切れないものも多く毎週泊ることにした。学食での朝食粥も毎週食べられる。寝袋等持参で大袈裟な荷物になっていた第一回目以後は軽やかな出で立ちで済むから面倒でない。遠く離れた学校での夜の行事は嫌だと思っていた。が行動した今、何が幸いするか分らない感じにもなっている。

<在学校住宿的一晚>(翻译 徐旎)

因为晚上的活动忙到很晚,坐班车回去的话要超过十点。于是我就在学校里的招待所里住了下来。樱田老师前辈也住在隔壁的房间。二楼住的是其他学院的老师。虽然来回花两个半小时回自己的家睡很好,偶尔在其他地方住住感&
#35273;也不错。被人告知“这边什么也没有”我就自己把睡袋带来了,但发现这边提供的寝具还是很干净的。如果能加插座的数量,电热水壶和电脑能同时用的话就很方便了。


  因为离学生宿舍很近,晚上也有学生来找我商量。白天也有很多没能做完的事,于是我决定每天周一住在学校。早餐的话可以在学生食堂里喝粥。这次是第一次在这里住,我带了睡袋等一个大包袱的行李。以后可以简装出行倒也不是很麻烦。我以前讨厌
;晚上在离家很远的地方参加活动。但想到平日不能在外住宿而现在却有了这个机会,不知道这算不算是一种幸运呢。




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駄目な時は「goo」の「blog=ブログ」で「あるがままに前進」か「arugamama3」
で検索すると、HPとほぼ同じ内容を見ることができます。
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