FC2ブログ
日本と中国の友好を願って活動する日本中国友好協会玄界灘(宗像・北粕屋)支部

2018/11123456789101112131415161718192021222324252627282930312019/01

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
忘れまじ、花岡事件のこと

                            須田鋭一

花岡事件のことは皆様も耳にしたことがあると思います。
戦後70年、事件の勃発からもこの6月30日で70周年を迎えます。
1944年から1945年にかけて3回に分けて約1000人の中国人が秋田県県北の花岡鉱山(現大館市)に強制連行され、鹿島組(現ゼネコンの鹿島)花岡出張所が請け負った鉱山のダム工事、花岡川改修工事に使役されました。
だが極端な食糧不足、薄着のままの真冬工事などで次々と死者が出ました。
それに加えて日本人補導員の度重なる虐待にも耐えねばなりませんでした。
中国人の代表者・耿諄は「食料の増加」「補導員の虐待行為の中止」などを鹿島組の出張所長に求めましたが、拒否するばかりか殴る始末で、「このままでは全員が死亡するか殺される。蜂起して復讐しよう」と耿諄を中心に計画が練られました。
1945年6月30日夜、約800人の中国人がいっせいに蜂起しました。
だが、彼らは補導員4名を殺しただけで鎮圧され、蜂起は完全に失敗に終わりました。
一週間後には全員が捕まり、拷問などで100人以上が殺されたといわれています。
結局、鹿島組は敗戦後中国人が帰国するまでに全部で419人を死亡させました。
戦後すぐ、GHQの横浜裁判所で鹿島組所長や補導員6人は死刑判決を受けましたが、やがて全員が釈放されました。
これが花岡事件と呼ばれるものですが、当時地元でもこの事件はあまり触れる者はなく、タブー視されていました。
今でも不明な点が多いと言われています。
 ところで指導者の耿諄のその後のことです。彼は中国に帰国し、1985年にはある県の副主席になっていましたが、かつての同胞が鹿島建設に未払い賃金を求めていることを知って、彼らと共に1987年2月に40年ぶりに来日し、日本人弁護団や多数の支援者と共に日本政府や企業に戦争責任と損害賠償を要求しました。
その後、紆余曲折がありましたが裁判所の和解のすすめもあり、鹿島建設の法的責任は認められなかったが、補償金と慰霊費を支払われることになりました。
しかし、和解文には謝罪を表す言葉は一つもありませんでした。
耿諄はいつも日中友好万歳、全世界平和万歳を願っていた。
2012年8月、彼は日本人弁護団や多くの支援者に感謝しつつ逝去しました。
行年98歳でした。  
戦後50年の時には「村山談話」が発表され、かつての戦争は侵略であったとして、中国・朝鮮をはじめ各国に痛烈な謝罪を表明していますが、この談話の結語は「杖(た)すくは信(しん)に如(し)かず」とある。安倍政権も様々なレトリック(修辞法)はあろうが、要はこの結語にある。   (2015年4月12日)
 
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://genkai08.blog103.fc2.com/tb.php/233-9c868222
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。