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日本と中国の友好を願って活動する日本中国友好協会玄界灘(宗像・北粕屋)支部

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大学の教養寮「恵迪寮」の機関誌に投稿しました。

私の昔と今

恵迪寮.応援団.日中友好協会.学生運動  

            1963年入寮 石津(旧姓松尾)宏介

  <待ち受けていた異質の世界>

私は、新聞部に属しまた生徒会長もした高校時代より、大学時代の思い出が大きい。
 博多を発って48時間。4月1日。まだ雪の残る恵迪寮の門を潜ったのだが、瞬間、この古さ、汚さに驚かされていた。入寮面接は教員がするものだと疑いもしていなかったのに、実際は学生自身だった。信じ難い世界に身を置こうとしているのだ。
正面に蓬髪の男がいた。私は一浪しての入学だから、前年の日大での受験も経験している。その際に見ていた「変わった」男に面接官は似ていた。応援団の団長だと後で知った。
 入寮が許可され、希望の部屋名欄に、私は「中国研究会」と記した。北海道への憧れと中国への憧れは同じ。二年生二人の呼びかけに新入生三人が応えての5人部屋構成であった。取り立てて何か中国を研究した記憶はない。しかし紛れもなく私は中国と関わって生きていくのだとの意志を自分に言い聞かせることにはなった。

   <濃い人間関係>

 サークルをどうするかで迷った。空手部も考えたが、結局応援団に入団した。人を励まし自らも元気付く生き方と、「選抜」された孤高の実感は、応援団で味わった。
次の部屋替えから応援団の7人部屋に移り住んだが、中国への興味は一層増していた。中国関係の学習会を見つけたら一人で出かけ黙って聞いていた。勧められ日中友好協会北大学生班にも属した。寮にある政治的集団のセクトは、日本の現実の反映なのだろう。学生運動にも積極的に関わることになった。
こうした寮生活は常に刺激的だった。だから自分の子ども等が大学受験先を決める時も、「九州を離れること、寮に入ること」だけを私は要求してきた。未知なる自然、人と人との濃い人間関係は貴重だと今でも思う。

  <私の中国 今昔>

学部移行は、中国文学希望だったが「教養」が足りず、中国哲学に回された。その後、文化大革命を支持できない者の就職は拒否され、卒業後の日中貿易会社等への道は断たれた。福岡に戻って高校の教員をした。日本語教員の資格も取り、退職後、若い頃の夢実現のために中国に渡った。貿易は出来ないから日本語を教える仕事に従事している。
私が退職後に中国で接した4つの大学生は殆ど皆、日本の高校生の感じだ。原則寮生活である。ここは4人部屋だが、他大学では6人、8人部屋もあった。二段ベッドが大半を占めた隙間で、お茶とお菓子も食べたが、学生は酒を飲まないし、政治的発言もしない。
今、知人が日本から訪ねて来れば、教室で学生たちと交流する。時に寮に泊まって貰う。昔応援団の遠征で泊った九大田島寮はないが、今に残る京大吉田寮に泊っては孫世代の感の学生との語らいを今も時々する。「寛ぎの場」寮は、いつでも何かを学ばせて呉れる。
貧しさの中でチャイニーズドリームを描く中国農村出の若者に、一日本人としてだが日本を代表した積りで、恵迪を語り学生運動を語り、今を語る私の中国生活は、後少し続く。


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